ソドムに降る炎

 歴史的に聖書におけるソドムは男色の街とされてきた。ソドミーの語源でもあり、欧米で同性愛が固く禁じられてきた理由と考えられる。街そのものを滅ぼしたところを見るに、同性愛は行為そのものも罪であるが、それを黙認するのも罪ということだろう。連帯責任といったところかもしれない。彼らが愚行権として享楽に溺れYHWHの裁きを受けるだけならそれほど問題視されることもなかったと思われるが、その裁きに巻き込まれるのは勘弁願いたいと多くの人は考えたことだろう。

 時代は変わり、同性愛が認められるようになってきた。しかし旧約聖書の記述はそのままだ。キリスト教ではイェシュアは最後の預言者であるから、ここから真・新約聖書のようなものを作ることはできない。ならばどうするか?答えはひとつ、聖書の解釈を変えてしまうことだ。

 

 旧約聖書には「汝姦淫することなかれ」というものがある。旧約聖書における姦淫とは「処女でない未婚の女性」「男女の不倫」「男性の同性愛」とされている。これらは死刑となった。またYHWHの裁きを受けたオナンを語源とすることから自慰も罪であるとされ、オナンの本来の行為である避妊も罪と見なされる。

 また新約聖書のマタイによる福音書ではより苛烈となり「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」とまである。これは少し前にツイッター界隈でパワーワード化していた「性的まなざし」のオリジナルと言えよう。

 加えて、ヨハネによる福音書ではかの有名な「罪のないものが石を投げよ」が登場する。ここではイェシュアは石打刑(死刑)から女性を救っている。

 ここから読み取れることはイェシュアは不倫>自慰>超えられない壁(地獄に落ちる)>女性の婚前交渉と考えていたということだ。マタイとヨハネで書き手が違うから~というのはここでは無視する。まずは聖書は絶対に正しいという方向で進めたい。

 

 これら姦淫の中でYHWHが直接手を下したものはソドムとオナンの件だけだ。絶対に許されない大罪と見なしていい。つまり、聖書の解釈を変えねばならない部分ということだ。

 

 自身の子孫を望んだオナンの意思は無視して、その行為にのみ着目すれば、性欲の処理のために女体を使用したと見なすことができ、奇しくも「性的モノ化」に合致する。

 

 ソドムは問題の焦点を「著しい性の乱れ」とし、そうした性の乱れの中に男性の同性愛があったとすればよい。こちらも同じく献血のポスターを性的だと批判する声と合致する。

 

 これらは偶然だろうか?私はそう思わない。知的エリートのマッキノン、経験に基づくドウォーキン、特に避妊と堕胎に肯定的であったとされるドウォーキンでさえYHWHを批判できなかった。家父長制の元になっているのは聖書、つまりYHWHの言葉に他ならないのだから、YHWHへの批判がでないのは日本在住のキリスト教徒でない日本人としては不思議でならない。だが、おそらくそれが当時のアメリカの空気なのだろう。キリスト教こそが絶対のルールなのだろう。

 そしてそれは今も続いている。避妊、堕胎、同性愛、それらを是とするためにYHWHを否定せず、代わりに誰かを地獄の業火へ放り込もうというのが現在の欧米の人権活動だ。

 

 つまり、かつて本邦における表現規制とはアメリカの宗教右派によるものだと言われてきたが、その図式は今も変わっていないのだ。人権派、つまり左派の顔をしているだけで、その実態はキリスト教による侵略である。

 

 

 ひとつ自説として「諸外国が日本よりも性犯罪が多い理由は自慰をタブー視しているから」だと私は見ている。イスラム教の女性観や尼僧と修道女の恰好などからわかるように、男性にとって女体は性欲は理性に影響がある。ポルノ中毒の文脈で、ポルノ視聴をやめたら彼女が出来たという話があるが、それはそれだけ積極的に異性に迫ったからに他ならない。そして積極的に迫るということは当然ながら性犯罪は発生しやすくなる。そもそもこれはおかしな話でもある。元々好きな子が居てアプローチする勇気が出たという話ではないのだ。

  本邦におけるいわゆるセクハラオヤジも同根で、セックスや自慰の機会が大幅に減少することで性欲が高まった状態になり、異性に対して無駄に積極的になるからだと見ている。

 自慰をポジティブなものとして定義し性欲をセルフコントロールしていくのか、ネガティブなものとし爆発物を抱えるのか、どちらが安全な世界かは言うまでもない。聖職者の性犯罪を見れば、聖書では性欲を消せないことは明白である。

 

 

 

 

 余談だが、表現の悪影響を訴える声があるが、旧約聖書の存在によってそれらは完全に否定できる。上記のように聖書には石打刑なる専門の死刑執行人によるものではない死刑が存在している。それらは「~しなければならない」と義務の形で記述されている。そして聖書というものは正しいものだ。

 しかしながら、不倫報道のあった芸能人を石で打って殺して回る人間はいない。アメリカでは同性愛者であることを理由とした殺人事件はあったが、それはヘイトクライムに分類されており、聖書に基づいた正義の執行ではない。